アフリカ大陸上陸
船でセウタに着いたのは真夜中だったので、すぐその辺にある安宿で一夜を明かし、朝、宿を出て、はじめて町の様子を目にした。そのときの強烈な印象はまだ記憶に焼き付いている。
狭い路地に群れる人々。喧騒の中をロバが重い荷物を背負って通る。男たちは茶色やこげ茶のフードつきの長いコートのような民族衣装を着て、するどい目つきで、私たちをギロッと見つめる。女たちは、白い布を頭からすっぽり被り、口元も布で隠して、黒い大きな目だけ出している。ああ、ここは、イスラムの世界なんだ。私たちの世界と全然ちがうところへ来ちゃったんだと実感した。町をただ歩くだけで、冒険しているような気分になった。

列車
セウタからテトゥアン、カサブランカへと汽車で移動した。

車両は、一等車から三等車まである。私たちはもちろん三等車に乗った。ひどく混み合っていて、座席は板だけで、クッションは全然ない。押し合いへし合いで、なんとか坐らせてもらった。地元の人たちとガタガタと揺られながら旅をするのは、いいものだ。その土地の体温やにおいが感じられる。言葉はわからなくても、長時間一緒に坐っていると、なんとなく親しみが湧いてくる。
お昼時に、隣のおばあさんが袋から、丸くて平べったいパンを出してきて、食べ始めた。なんとなくそれを眺めていると、一口ちぎって分けてくれたので、ありがたくいただいた。ちょっとかたくて酸っぱかったが、おいしかった。Tは、なぜか日本の味付け海苔をもっていたので、それを出してきて一枚をそのまま食べ、もう一枚を隣の人に差し出した。そのおじさんは、その黒い紙みたいなのを不思議そうに眺め、ちょっと手にとり、においを嗅ぎ、やっぱり要らない、と彼に返した。それを見てみんなが笑った。そんな何気ないやりとりが楽しかった。
アフリカの宿
町に着くと、Tはリュックを背負ったまま、やたら歩き始める。歩いて、町のおおよその様子を見て、土地勘を働かせ、どこに何があるか、安宿はどのへんにあるか、見極めるのだそうだ。宿も5,6軒訪ね歩き、一番安いところに決定する。私は荷物が重いので文句を言いながらついて行った。「もういいよ。いいかげんのとこで妥協して泊まるとこ決めて、早いとこ荷物降ろして、身軽になってから歩き回ろうよー」そう言ったのだけど、彼は全然聞いてくれず、とことん安いところを探し回った。日本円だと、5、60円の差なのだけど、アフリカにいると、その差が大きく感じられるものなんだ。私だったら妥協しちゃうんだけどな。
あるときなど、あまりにも安い宿に泊まったせいか、シーツはじっとりしていて、寝ると体がワッとかゆくなったこともある。それでも何とか寝て、朝、トイレに行くと、やけに明るい。あれ、と思って上を見ると屋根がなく、青空が見えていた。あれには驚いた。屋根はどこかへ吹っ飛んじゃったんだろうか。雨の日は困るだろうなと思った。傘さして、するのかな。
マラケシュ
マラケシュへはバスで移動した。ところが、バスの出発時間が午前3時などというとんでもない時間なのだ。なぜこんな時間に出発しなければいけないのか、理解できない。寝ちゃうと寝過ごしそうだし、寝ないと眠いし。夜、バスの出発する場所へ行くと、男達が5,6人焚き火を囲みながら座り込んでバスを待っていた。アフリカといえども、十二月の夜は寒い。彼らは長い管のようなもので何かを回し飲みしている。「あんたもどうかね」というしぐさで勧められたけど、得たいのしれないものを飲みたくなかったから、断った。あれはなんだったのだろう。もしかして、ドラッグ?それともタバコかな?
バスは屋根の上にも荷物をいっぱいに積み込んでガタガタと真っ暗闇の中を走る。バスの中も真っ暗だ。みんなぎゅうぎゅうに詰め込まれて坐りながらうつらうつらと眠っている。時々、バスがどこかの村に停まると、何人かが降り、、何人かが乗り、そして、2,3人の男達が前から乗ってきて、コーラン(?)を唱えながらお布施を集めて、後ろから降りていく。私達のところへ近づいて来たが、外人だから、何もわからないだろう、と思ったのか素通りしていった。よかった。私は夢うつつで、そのかすれた歌声を聞いていた。眠気をさそう子守唄のようだった。
明け方、遠くに白い山脈が見えた。アトラス山脈だ!真っ白に雪を被っている。アフリカで見た雪の山脈。アフリカ、イコール暑い、と短絡に想像していたから、真っ白な山脈を見て、かなり驚いた。アフリカにだって、雪は降るんだ。私はジャンパーをしっかり着込んでふるえながら、認識を新たにした。
バスを降りると子供達にわっと取り囲まれた。ガイドをするというのだ。僕をやとって!いや、僕だ!と彼らは大騒ぎ。うろうろしてると騒ぎはだんだん大きくなる。Tが「えーと、お前だ!」と目のくりっとしたかわいい男の子を指差した。すると他の子供達はがっかりしたようすで、でもすぐ他の旅行者のところへ走っていった。

(ガイドをしてくれた男の子)
そういうわけで、九歳のかわいいガイドの男の子と一緒に町を観光することになった。迷路のような町の中へ彼はどんどん連れて行ってくれる。いろいろなお店をのぞき、暗い階段をどんどん下りて行き、いったいどこへ連れて行かれるのだろう、とちょっと不安になったとき、行き着いたのは地下にある絨毯の店だった。床や壁いちめんの絨毯。店のおじさんが出てきて、、男の子の頭をなで、私達に笑いかける。でも、絨毯のように重いものは、買えないよ。急いでその店を出た。
お昼時、私達のガイドは「おいしいレストランがあるよ」と連れて行ってくれた。「モロッコのおいしい料理は何?」と聞くとクスクスだと言うので、それを注文した。小麦粉の粒を蒸して羊肉や鶏肉のシチューをかけて食べる。おいしかった。その子に「あなたは何が食べたい?」と聞くと「スープ」と答えた。「え?スープだけでいいの?」「うん」そういうわけで、彼はスープだけ。あれでよかったのだろうか。今、思い出してちょっと悪かったかなーと思ってる。
その子に「お父さんは?」と聞くと「いない」。「お母さんは?」と聞くと「病気」と答える。だから彼はガイドして、一家を支えているのだろうか。もっといろいろ聞きたかったけど、私のへたなフランス語では無理だった。でもガイドの子供達は、語彙は限られているけれどガイドに必要な言葉なら、何ヶ国語も話せるんだ。英語、フランス語、イタリア語、ドイツ語...。どこで習ったか聞くと「旅行者から」という。ここでは子供達も、とてもたくましく生きている。そうせざるを得ないからだろうが。
フナ広場へ行くと、あちこちにひとだかりがしている。
ひとりの男の人を囲んで、子供達が大勢、地べたに座り込んでいる。男の人は一生懸命に何かしゃべったり、地面に何か書いたりしている。これは、学校なのだろうか?
別の男の人のまわりには大人ばかりが大勢坐っていて、その人の歌うような調子の話を熱心に聞いている。これはつじ説法かな?何しろ言葉がわからないので、こちらで想像するほかない。それがとても残念だった。
別のところでは蛇使いが蛇をあやつっている。
そして回りには雑多なものを売っている屋台がずらっと並んでいる。

(左 フナ広場 右 蛇使いの絵葉書)
アラビアンナイトの世界に紛れ込んだような気がした。
ここには2,3日滞在した。ガイドなしで、あちこち歩いた。食事は客が5,6人も入ればいっぱいになるような、小さな小さな食堂でした。真中に置かれたテーブルの回りにスツールが5,6個置かれていて、そこに腰掛ける。テーブルのまん中に水のはいった大きなコップがあって、食事しているときにのどが渇いたら、それをとってきて飲む。終わったらまた、そこにドンと置くと、他の人が取って飲む。回し飲みだ。旅をしているうちに、そんなこともちっとも気にならなくなっていた。
だけど、食堂には女性の姿が全然ない。買い物をしてるのも男達が圧倒的に多い。だから、私は目立った。しかも東洋人だし。
「腕を組んで歩くのは止めよう」とTが言う。
「もしかしたら、ここでは、男女が腕を組んで歩くのは、ひどくみだらな行為かもしれないよ。」
そうかもしれないな。異文化の中にいると、行動の基準がわからない。私たちはちょっと離れて歩くことにした。
フェズ
またバスに揺られて古都フェズに着く。ホテルに落ち着いてから町の探検にでかけた。
旧市街の迷路の入り口まで来たときだ。いきなり4,50人の子供達がわっと駈け寄って来た。驚いて立ち止まると、彼らは口々に「シノワ、シノワ(中国人)!」とはやしたてた。東洋人はみんなシノワに見えるのだろうか。彼らは私たちを少し遠巻きにして見ている。だんだん数が増えてくる。「シノワ!」という声もだんだん大きくなってくる。
「どうする?」私は戸惑いながらTを見る。旧市街を探検したかったのに、それどころじゃなさそうだ。
「このままゆっくり引き返そう。走ったりすると、騒ぎが大きくなるから、刺激しないようにね。」
私たちはもと来た道をゆっくりと歩き始めた。子供達は私たちのあとを「シノワ、シノワ!」と叫びながらついてくる。だれかが私の袖をひっぱる。だれかがジャンパーのすそをひっぱる。私は平静を装いながら、知らん顔して歩く。石を投げられませんように、と祈りながら。Tは男だからか、彼にはだれも何もしない。道端に座り込んでいた老人が子供達に「止めろ!」というように、手を振る。旧市街を離れるにつれ、子供達の数はだんだん減ってきて、ついにはだれもついて来なくなった。やれやれ。だけど探検は挫折した。残念!
ここの子供達はマラケシュのように、観光客には慣れていないのだ。私たちはここでは完全に異邦人だった。そして、私たちは彼らとどうつきあえばいいのかわからなかった。わっと取り囲まれたから、逃げてきただけ。あの時、どうすればよかったのだろう?子供達の好奇心を満たすような何かをしてあげればよかったのかもしれない。取り囲まれたら、座り込んで、折り紙を折ってプレゼントするとか、(でも折り紙持ってなかった)日本の歌を歌ってあげるとか。それなのに、石を投げられるかもしれない、と少し怖くなって逃げてしまった。彼らと楽しいときが過ごせたかもしれなかったのに、残念だ。
アルジェ
私たちはさらにバスで移動して、アルジェリアに入った。フランスの旧植民地アルジェリア。昔、「アルジェの戦い」という映画を見たことがある。アルジェリアの独立のためにフランスと闘うゲリラたちの話だった。首都アルジェの旧市街はカスバと呼ばれ、迷路になっていて、ゲリラたちの隠れ場所になっていたという。いったんここに逃げ込むと容易には見つからないというところだ。たしかに道は入り組んでいて、斜面にある旧市街は階段があちこちにあり、それがどこへ通じるのか、さっぱりわからない感じだった。いきなり突き当たりになったり、どこかの家に通じていたりする。階段のまん中で床屋を開業してる人もいる。階段に白いケープをはおった男の人が腰掛けており、床屋がその人のひげをそっていたりするのだ。面白いから写真をとろうとしたら、止めろと手で合図された。通路には、いろいろな店がひしめいていて男達が値段の交渉をしている。

カスバを出て、どんどん歩いていくと、きれいな住宅街に来た。学校帰りらしい子供達が5,6人歩いている。12歳ぐらいの女の子が私たちを見て、「ボンジュール!」と挨拶してくれた。私も「ボンジュール!」と挨拶を返すと、
「あなたがたは中国人ですか?」ときれいなフランス語で聞く。フェズでも中国人と思われたけど、ここでもそうなんだ。
「いいえ、私たちは日本人よ」と言うと、
「日本?」と首をかしげる。
そこで、私は地面に地図を描いて、
「ほら、ここがアルジェリア、それから、ここが中国。日本はここよ。」と説明した。
それから、しばらく子供達とたどたどしく話しをした。彼らは小学校でフランス語を習っているのだそうだ。植民地時代の名残なのだろうか。それとも、高級住宅街にある学校だからだろうか。子供達の身なりもきちんとしていたし、態度もしっかりしていた。社会主義の国だけど、階級が存在しているような感じだった。
別れ
スイスからスペインを通って、モロッコ、アルジェリアと2週間、Tと一緒に旅をしてきたが、私たちはここで別れることになっていた。
私は日本に帰らなければならない。2週間の旅で、スイスでベビーシッターをして得た6万円は消えてしまったし、(アルジェからローマまでの飛行機代も含めての6万円)あとは帰国の費用だけしか残っていなかった。
Tはこれから、ひとり、陸路で帰国する予定だ。アルジェリアから北アフリカをさらにエジプトまで進み、アラブ諸国を通って、パキスタン、インドと旅をする。ほとんどがバスで移動することになる。考えただけでも、とっても大変そう。私は北アフリカを旅しただけで、もう、かなり疲れていた。彼と別れるのは寂しかったけど、行動をともにするのも無理だった。
彼は私を見送りにアルジェの空港まで来てくれた。
私には大問題があった。旅してるときは、そのことに夢中であまり考えなかったのだけど、帰国後、私は何をするのか、あるいは、したいのか、彼との関係はこれからどうなっていくのか、何もわかっていなかったのだ。
とりあえず、帰国して、すぐの仕事は見つけておいてあった。札幌オリンピックのドイツ語の通訳の仕事だ。これは、オーストリアにいたときに札幌の市役所に手紙を書いて、履歴書も送って、なんとか、面接はパスしてもらって、OKを得ていた。だけど、その仕事は一ヶ月だけ。そのあと、仕事をさがさなければならない。ま、なんとかなるだろう、と楽天的な私は考えていたんだけど...でも、彼とのことは?
「僕達、何も約束しないで、別れようね。」と彼が言う。
「え?」
「男と女には、緊張関係が必要だ。安心すると、堕落する。」
「...うん。」
私は彼の言葉をどう解釈してよいやら、わからなくて、ぼーっとしながら、彼と別れた。そして、ぼーっとしながら、人の流れについて行って、おしゃべりに夢中になっている係員にチケットを見せて、飛行機に乗り込んだ。席は決まっていなくて、どこでも空いているところに坐ってもよかった。
席につき、まだ、ぼーっと、これからのことを考えていた。
気がついたら飛行機は離陸体制に入っていた。私は時計を見て、真っ青になった。ローマ行きの飛行機の出発時刻よりも30分も早い!そんな!
乗り間違えた、と思ったときは、飛行機はもう、猛スピードで滑走路を走っていた。