学生時代

03/02/07

高校生のときも、大学に入ってからも、私は、のほほんと暮らしてきた。クラブ活動を楽しんでいた。勉強も面白かった。

大学が、猛々しい学生たちであふれ、バリケードが築かれ、マイクでがなりたてる声で騒然となるまでは...

 

友人と部活の帰り、大学の門を出ようとしたら、門のところでビラを配っていた男子学生がやってきて声をかけた。

「君達は、この世界に怒りを感じないのか」

いきなり、そう聞かれて、私は戸惑ってしまい、

「別に...」と口ごもった。すると、

「おい、こいつら、怒りを感じてないんだってさ」

と、周りの学生たちに大声で言った。

「なんだって?」

どやどやと5,6人の男子学生たちがやってきて、私たちを取り囲んだ。

「アメリカは、ベトナムに攻撃をしかけて、罪のない人々を殺している。お前たちはそのことをどう思ってるんだ?」

「それは、ひどいと思うけど...」おどおどとして、私は答える。

「じゃ、ベトナム反戦デモに参加しろ。あした、ここで集会をして、それからデモだ。」

彼らは反戦を訴えたビラを私たちに渡すと、他の学生のところへ、もっとビラを渡すために去っていった。

 

 

大学闘争は、東大から始まり、全国に広がっていた。

「大学の民主化」が叫ばれ、教授会に学生を参加させることを学生たちは要求し、さらに、教授会の決定に対して学生たちは「拒否権」を持つことを要求した。

医学部では、無給のインターン制度の廃止を叫んだ。

また、学問の産業界からの自立を叫び、産業界と学問との癒着を批判した。学問は世界のしいたげられた人民のためにあるべきで、資本家たちに尽くすためにあるのではない、と主張した。

今だと、学問と産業が一体となって、研究をするのに、なんの抵抗もないが、当時は、それは、資本家の腹を肥やす犯罪的な行為であった。

 

大教室で授業を受けていると、いきなり学生たちがどやどやと入り込んできた。そして、教壇を占拠して演説を始める。先生は

「なんだ、君たちは。外へ出なさい」

としばらく抵抗するが、反対に先生のほうが、外に出されてしまう。そして、そこは集会所に変わる。

大勢の学生たちが教壇にひしめき、様々な主張の学生たちが演説をする。

「そうだ!」

「異議なし!」

あるいは、

「ナンセンス!」

という声があちこちでする。

あるいは、主義の異なる学生たちの争いが始まったりする。

帝国主義、資本主義に反対で、人民の側につく、という点では、一致していても、彼らの主張は微妙にずれていて、どう違うのか私にはさっぱりわからなかった。

民主青年同盟(彼らはマルクスやスターリンを読めと私に言った)

社会主義青年同盟、革命的マルクス主義者同盟、民主学生同盟、(彼らはマルクスの初期の本や、レーニン、トロツキーを読めと言った)

ほんとうにいろんなセクト(派)があった。そして、セクトによって、ヘルメットの色が違っていた。だから、彼らは「赤ヘル」「青ヘル」「黄ヘル」などと呼ばれていた。

そういうセクトに属さないが、活動的な学生たちは「ノンセクトラジカル」と呼ばれていた。

 

友人たちは、いろんなセクトにはいってゆき、彼らはさらにそのセクトを強化するために、友人たちを勧誘する。

大学内での人間関係が、主義、主張の違いでガタガタと崩れ去り、新たに形成されていった。

苦しかった。

友人と、突然、意見が合わなくなって気まずくなったり、夜、セクトの人から勧誘の電話がかかってきたりする。意見が違って、ボーイフレンドと別れたりもした。

詰問されて、答えられなくなって、涙ぐんでしまったこともあった。

今まで、ほんとに世界のことを何にも考えてこなかったんだなあ、と実感した。

いきなり、行動することを迫られるのだが、私には、もっともっと勉強して考える時間が欲しかった。みんな、どうしてそんなに簡単に行動に移せるのだろうと不思議だった。

そう言うと

「ぼくたちは、ずっと前からたくさん本を読んだり議論したりして、考えてきたんだ」と怒られた。

「君は何のために生きているのか。何をしようとしているのか」などと、哲学的な問いを突きつけられたりした。

世界中にしいたげられて、飢えた人たちがいるのに、こんな安穏とした日常の中に埋没していていいのか、と。

 

いろんなことを考えなければならなかった。

私はその頃、ほんとうにたくさんの本を読んだ。

サルトルやカミュの実存主義の本、いろいろな哲学書(ニーチェ、キルケゴール、カント、デカルトなど。とっても難しかった。途中でよく寝てしまった)、シモーヌ ヴィーユについての本。ガンジーの非暴力主義について。さらには、ロシア革命史、スペイン義勇団に関する本。中国革命。ドイツ革命。様々な世界文学(特にロマン・ロラン、ヘルマン・ヘッセ、トーマス・マン、ドストエフスキーなど)

読みすぎて、頭がごちゃごちゃになった。でも、その読書によって私は西欧的なものの考え方の洗礼を受けたのかもしれない。

この学生運動がなければ、私はずーっと、のほほんとして学生時代をすごしていただろう。

 

大学はバリケードで門が封鎖され、授業がなくなってしまった。そのかわり、集会とデモがあった。集会では、教授たちが、彼らの研究内容や、大学管理について問われ、批判され、何日も学内に閉じ込められてうちに帰してもらえなくなったりしていた。

私の叔父が同じ大学の教授だったので、バリケード内に監禁されているときに、慰問に行ったことがある。(バリケード封鎖しているのが、私の友人の友人だったりして、中に入れてもらえたのだ)

彼はけっこう楽しそうで、

「きのうは学生たちと銭湯に行ってきたよ」と言っていた。

一緒に焼き鳥屋に行ったりもしたらしい。まあ、いじめられてなくて、よかった。

 

デモに参加したこともあった。

大学がこんなに揺れ動いているときに、ずっと傍観者でいることに耐えられなくなったからかもしれない。

世界の不平等に対して、訴えたくなったからかもしれない。

友人と一番安全そうなノンセクトのグループに紛れ込んだ。大学院生のグループで、彼らはヘルメットもかぶっていなかったし、角棒も、もちろん、火炎瓶も持っていなかった。。デモの先頭は、ヘルメットをかぶり、覆面をし、角棒で武装した学生たちだった。私たちは、その列のずっと後ろを歩いた。

年上の大学院生たちはとてもやさしかった。私たちが女の子だというので、機動隊に蹴られたりしないように、列の真ん中に入れてくれた。両横はがっしりした男性に守られての行進だった。しっかり腕を組んで歩くと、不思議な連帯感を感じた。

夜の御堂筋はデモ隊の「ベトナム戦争反対!大学を民主化せよ!」などというシュプレヒコール(叫び声)で騒然としていた。

機動隊が盾を持って、デモ隊を囲んで一緒に歩いた。

広い通りで、パーっと両手を一斉に横にひろげて、広い列になったり、一斉にパンパンと手を打ったりした。その音が高いビルに反響して、増幅される。すると、なぜか気分が高揚してしまう。

前方を行く学生たちはやけに威勢がいい。静かに歩いていたデモが彼らの先導で、ジグザグデモに変わり、警察の車のマイクが

「このデモは道路交通法違反です。すぐに解散しなさい」

と大音響で叫び、前方の学生たちは機動隊員に棍棒でなぐりかかられてバラバラと走り出す。

後方の私たちはそのまま流れ解散になる。

デモの見物人の中に紛れ込むと、もう私は普通の通行人だ。

しかし...

デモに行ったからといって、世の中は何も変化しない。

だいたい、「労働者との連帯」と言っても、彼らにしてみれば、学生と連帯しようなどとは考えていないのだろう。

デモが終わって、電車に乗ると、日常の風景はいつもどおりで、平和そのもので、あれはいったいなんだったのだろうと思ってしまう。

生活者ではない学生たちの限界なのかもしれない。

 

学生運動はだんだん先鋭化してゆき、私たちの日常からどんどん離れていった。

「世界同時革命」とか、「東京戦争」「大阪戦争」などと言い出すと、もう、

「何、言ってるの?」

と、ついていけなくなる。

セクト間での殺し合い、赤軍の暴走...

だんだんひどくなって、この運動は自滅していった。

 

バリケード封鎖されている全国の大学に次々と機動隊が教授会の要請でやってきて、封鎖を解き、中にこもっていた学生たちを逮捕していった。

テレビでは、東大や京大の時計塔がガス銃や放水を浴び、火炎瓶が投げられ、窓ガラスが割られる様子を放映していた。

私たちの大学でも、同じことが起こった。

中にこもっていれば、逮捕されるとわかっていて、それでも数人の学生たちは逃げ出さずに残った。セクトの学生たちは、自分たちの勢力温存のためか、全部逃げ出していた。残っていたのはどこにも属さない学生たちだった。彼らは自分たちの行動を「マンガチックだ」と言っていた。

テレビで、私の知っている学生が逮捕されている姿が映った。いつもは、とてもおとなしい学生だった。

彼はその後、どうなったのだろう。

大学時代の友人たちは、ほとんどがバラバラになってしまって、音信もない。

 

この体験が私に残したものは、何だったのだろう?

それまで、ぼーっとして暮らしていたのが、少しはものを考えるようになったことだろうか。

「君はこの世の中で、どうやって生きていこうとしているのか。このままでいいのか。」

という根源的な問いを私につきつけたまま、この運動は終焉した。

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